りんご開花

乱高下のお天気がつづく春になっています。
今朝はまだ淡い新葉のからまつ林が朝霧に沈んで、静まりかえった山の景色でした。日中は真夏日に届こうかという騒がしい暑さ。

りんごの花も、例年にないはやさで咲いています。
通常は、4月末ごろからゴールデンウィークにかけて開花するはずの「ふじ」の花が、今年は今月の半ばにひらきました。りんご畑は一面にうすい花の色でにぎわいを見せて、うっとりするような眺め。

ですが、この開花のはやさはりんごのためには非常にまずく、寒のもどりによる降霜の被害がとても心配です。18日の未明にかなりの低温になり、週末にもふたたび冷え込む予報。
花が低温にあたってしまうと、受粉ができずに、実がつかなくなってしまいます。おととしも早い開花で霜の被害をうけ、りんごの収量が激減してしまったことなどが頭をよぎりつつ…。すがるような気持ちで霜よけの資材をつかったり、人口受粉の作業をしたりしています。

夕暮れのグラウンドで子どもたちはとっても元気。
りんごの結実はしばらくたたないと状況がわかりませんが、ちゃんと実がつきますように。

除雪

がっつりと重たい雪が降りました。

行政から自治会に除雪作業が委託されているので、こういう日は除雪車にも乗っています。

冬。

ひなたざかの父です。先週の寒波以来、例年以上に寒い日が続いています。雪もそこそこに積もって、地区の除雪のために除雪車に乗る日もしばしば。子どもたちは家の周りでそり滑りとかができて嬉しそうです。

きょうの夕方。山里。降る雪の向こう側で宵闇が手をひろげて、気がつくと、あたりが物凄く静まり返って森閑とした世界。

しばし雪かきの手を止めて茫然としておりました。

蛇の口より光りを奪え

ひなたざかの父です。あいかわらず雪は降りませんが、真冬らしい寒さになりました。

冬空の果樹園。土のしめり気。風に背を向けて、ほうろうのカップ。粉っぽいコーヒー。湯気は流れてすぐ消えた。

そんな中でカロッサの従軍日記を読んでいました。ふるい文庫本の粗い紙。活版の文字。硬質な文章が愈々身に沁みます。

十一月十七日。未明銃撃があったが、ほどなく熄んだ。陽が出ると空が晴れた。透明な雲の薄い膜のうしろには、胚種のような形をした黄金色の、虧け行く月しろが懸かっていた。担架卒が来着して、漸次全負傷兵が運ばれて行った。ピルクルは居残らねばならぬ。脈がほとんどなく、屍体になってオイトーズヘ行くことだろう。弟が一時間の暇を貰ってピルクルを見舞ったが、もう話もできない状態になっていたので、その一時間を利用してまだ息のある兄のために墓穴を掘り、十字架を削り、その上に青鉛筆で丹念に戦死した兄の名前を書き誌した。


(カロッサ『ルーマニヤ戦記』高橋義孝訳 新潮文庫 1956)

あたたかい冬。

ひなたざか父です。

引きつづきりんごの剪定。

朝晩の冷え込みにくらべて、日中は10℃をこえるような日々です。

仕事は楽なのだけれど、やはり異常な気候と言わなければなりません。

おととしは、高温のせいでりんごの開花が早まり、霜にあたってたいへんな被害がでてしまいました。少しばかり、そのときの嫌な記憶も過りつつ…。

しずかな今夜のお供は、サイモン・フィッシャー・ターナーのアルバムで。

玄米あげもち。

ひなたざか父です。

もち米を玄米にして、1週間ほど浸水し、臼で搗いて切り餅にしたものを素揚げにします。大根おろしをのせたり、いそべ餅にしたりします。

我が家の冬の味覚です。

サタンタンゴ

ひなたざか父です。

お正月。
家でタル・ベーラ監督の映画「サタンタンゴ」を観ました。約7時間20分の長編。

あらゆる一瞬に訴求力あふれたショット。過剰さを覚えるまでの長回し。貧困と愚かさに塗れた人物造形。神話を思わせる物語構造。そしてそればかりではない、僕には言い尽くせない魔法のような魅力。忘れえない映像体験になりました。

−「体内にも雨が降るんだ」
−「俺はもうずぶ濡れだ」
−「もう一杯くれ」


(サタンタンゴ)